こんな静かな夜 (長田 弘 )
ひとの一生はただそれだけだと思う。
ここにいた。もうここにはいない。
死とはもうここにはいないということである。
あなたが誰だったか、わたしたちは
思いだそうともせず、あなたのことを
いつか忘れてゆくだろう。ほんとうだ。
悲しみは、忘れることができる。
あなたが誰だったにせよ、あなたが
生きたのは、ぎこちない人生だった。
わたしたちと同じだ。どう笑えばいいか、
どう怒ればいいか、あなたはわからなかった。
胸を突く不確かさ、あいまいさのほかに、
いったい確実なものなど、あるのだろうか?
いつのときもあなたを苦しめていたのは、
何かが欠けているという意識だった。
わたしたちが社会とよんでいるものが、
もし、価値の存在しない深淵にすぎないなら、
みずから慎むくらいしか、わたしたちはできない。
わたしたちは、何をすべきか、でなく
何をなすべきでないか、考えるべきだ。
冷たい焼酎を手に、ビル・エヴァンスの
「Conversations With Myself」を聴いている。
秋、静かな夜が過ぎてゆく。あなたは、
ここにいた。もうここにはいない。
長 田 弘
ここにいた。もうここにはいない。
死とはもうここにはいないということである。
なんと 切々と しかし静かなことばだろうか。
そうなのである。
死 とは いたものが 今 ここにいなくなる ということ
ぽっかりと 最初から何もなかったかのように でも
あなたを知っている私の心の目には
それは 「あなたが欠けた」空間と映る
その空白の分が 死。
そして いずれ わたしも、また。 消えてなくなる。
あなたの前から。
私を知っていたあなたも また 消えてなくなる。
そうして 関係が すべて 空に消えて行ったあとも
なにごともなかったように
世界は 進行するのです。
わたしたちは、何をすべきか、でなく
何をなすべきでないか、考えるべきだ。
このひとの詩には
いつも はっとさせられることばとの出会いがある。
「人の品性は
なにをするか ではなく
なにをしないか で計られる」
と 私は思う。 そんなことも 思い起こす。