父を亡くしたのは 去年の秋口(※注)のこと。
この春 父が世話人をしていた詩の同人誌から、追悼集が出た。
それを知ったのは ごく最近だった。
弟が 生前の父に託されて、詩人達と連絡を取り合いながら話を進めたということだ。
詩人としての父を、
弟よりも多分愛していたと自負している「娘」は
最期の仕事に関わる機会すら与えられず、
その間 静かに無視された。
突然 受け取った その遺稿集には
「遺族からの寄稿」ということで
母と弟の文章が載せられた。
私 は 遺族ではない。
私 は 父の 後継者 ではない。
詩のひとつも縁がなかった弟に
父は 詩人としての自らの「その後」も託してしまった。
私 は 疎外された存在。
そんな悔しさが 静かにわきおこる。
何度も味わった この種の疎外感。
それは いつから 宿ったか。
まず、姉が生まれ、3年後に 私が生まれた。
「また女」と落胆された。
しかし 私は ある年齢まで 「長男」として育てられたように思う。
勉強もできたし学校でも目立っていた。
音楽をやらせたらやらせたで、どんどん上昇気流に乗った。
だから。
たしかに ある時期まで 男 として 育てられていた。
母親に。
(拙稿「黒いランドセル」参照)
7年後 弟が生まれた。 待望の「長男」の誕生。
産院から帰る父親は小躍りしていたそうだ。
「長男」が高校生になる頃 娘 は 少しずつそれまでの役割を剥奪された。
それはそうだろう。
本物の長男が登場したのだ。
代替品にはもう用はない。
静かな疎外 が始まる。
・・・・大学。
私が本命の国立に落ち、
滑り止めの早稲田に合格したとき、母親は何と言ったか。
『国立に落ちたんだから就職しろ』の一点張り。
父親の取りなしで どうにか大学に入ることができた。
・・・・就職。
現役合格、留年なしで卒業して、いわゆる「一流企業」と呼べるところに就職した。
これで母親にも認めて貰えるのだろうかと たぶん私は思ったはずだ。
母親のご機嫌取り。
そして 社内結婚。
そのころ 弟の大学受験を迎える。
弟は いつも 私の後を追っていた気がする。
高校受験のときは 私の行った高校を目指したがかなわず、1段下の高校へ。
そして 大学受験。
やはり 目指したとおりにはいかず 2年も浪人生活を送る。
その結果が 明大。
母親は何と言ったか?・・・・・何も云わない。
『男の子なんだから』
何が??
就職しろとは 口が裂けても言わなかった。
私の時とは違って。
2年浪人しただけではない。
弟は その後 ご丁寧に「留年」までしたのだった。
しかし 母は 何も云わない。
・・・・・・・・・・・おそらく 母も弟も
そういったことに一生
無自覚=イノセントなままなのだろう。
私がこのように心の底にずっと消えぬものを抱えていることなど気づくはずもない。
そう。
疎外は まだ続く。
10年ほど前に父が
生まれて初めて 分譲マンションを購入しようと
物件探しをしていた頃のこと。
不動産購入経験が2度ほどある私は、
乞われて、一緒に物件を見につきあったものだ。
ある物件はメゾネット方式になっており、室内に階段があった。
母が ひとりごつ。
「こんな階段があったら、
もし将来 ●●(弟の名)のお嫁さんが
妊娠でもしたとき、危ないわよね」
その台詞を聞いたときの私の心中がおわかりだろうか。
母にも弟にも永遠にわかるはずのない、ショックを。
話せば長くなるが聞いていただきたい。
その1年ぐらい前のこと。
私は
切迫流産で大学病院に入院していた。
私の2度目の夫と暮らし始めて半年ぐらいのことだった。
夫は多重債務者だった。
しかもそれは結婚することが決まってから明かされた秘密だった。
内部事情もいろいろあるが、
私は信じた人に手ひどく裏切られたという想いから癒されぬまま、
どうにもならぬほどの借金に追われる生活のさなかだった。
調べてみると夫の多重債務は優に1000万を超えていた。
悪いことに私自身がバブル崩壊で不良債権化した中古マンションのローンを抱えて身動き取れなかった。
経営参加していた社員数名の零細企業は売上が立たず給与も遅配。
しかも夫の(生い立ちから来る)性格的な問題点も明らかになり、
不安のどん底の中での妊娠だった。
私が走り回らなければ会社が回らないのに
入院などしていられる身分ではなかった。
おまけにK病院は大部屋がなく差額の必要な2人部屋。
経済的事情で、
たとえ産んでも 自分ひとりでは 育てられない、という絶望。
それだけではない。
もっと深刻な不安があった。
産んでも
夫がどう子供に対するのかを想像したら恐ろしくて産むことを躊躇した。
なぜならば夫は崩壊家庭の子息で、父親を激しく憎んでいた。
彼が母親の腹の中にいたときに
こともあろうに実父が
「経済的に無理だから堕胎せよ」と
家計簿を証拠書類に家裁に堕胎を申請したのだそうだ。
父親に殺されかかった子供。それが彼だった。
その憎悪は計り知れなく、
父と息子の間の確執を温存したまま生きる夫は、
生まれてくる子供が万一男の子だったら、間違いなく・・・・・・
もちろん夫は妊娠を喜んではいなかった。
そこへ 見舞いにやってきた母親は、こう言ったのだ。
「あんた、
自分たちだけでどうにかできないんなら
早いうちに始末(=堕胎)しなさいよ。
親をアテにされても困るんだから」
一生忘れない、その台詞。
あの入院時代は忘れもしない。
病室は2人部屋だったが、
隣のベッドには家族全員から妊娠を祝福された妊婦が寝ていた。
私は孤独だった。
誰も味方がいないと思った。
おそろしかった。
娘には
子供を始末しろという台詞を平然と吐いた その母親が
当時まだ恋人の影すらなかった弟の
「未来の赤ちゃん」のことを 心配する。
その残酷さ。
あなたに わかるだろうか。
私の心中が。
・・・・・・・そして 父の入院。死去。
確かに私は一緒に暮らしていない。
だからといって。
やるせないのは、
母も弟も
まるでそんなことには気づきもしないだろう、という現実だ。
私は この淋しさを どこにぶつけようか。
そう。
そういうときに 心をみつめ
自分を保つために
「書く」ということを
その生き方で教えてくれたのが 父だったのに。
私は 書く。
私は、こうやって コトバに向き合う。
そうすることによってしか、私は私をつなぎとめることができない。
父よ。
母よ。
弟よ。
私は あなたたちから 静かに疎外され 遠くにいる。
遠くで 今日も ことばと格闘している。
2006年初稿
(※注) 2006年時点。父は2005年秋に他界した。
自作詩と随想 目次
テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学