「感受性の領分」<長田弘>より
人の言葉のなかにある沈黙を受けとる、ということだ。
100%のイエス、でなければ100%のノーという考えかたは、信じることができない。
あれかこれかという二分法の思考でことを簡単にすることは、
どんなにたやすくとも、たやすいぶんだけ、
言葉をうそハッタリにしてしまう。
言葉の材料は、51%のイエスと、そして49%のノーなのだ。
信じられるのは、49%のノーを胸に、51%のイエスをいおうとしている言葉だけだ。
ひとの記憶のなかにある「もし」。
その確かめようもない「もし」という記憶が
しばしばひとの人生のなかの空白をみたすのは、
記憶という知覚の官能のなかでは、「ありえたもの」と「ありえないもの」とがたがいに浸透圧をもつために入れかわりうるからだ。
ひとのもつ記憶は、「もし」によって癒され、「もし」によって傷つけられている。