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無神経で無知なるものたち

http://lite-ra.com/2014/11/post-665.html
【東山紀之が“反ヘイト本”を出版していた!自らのルーツと在日韓国人への思いを告白】

>安倍よ。一度、東山の本を読んでみるといい。
>頭の悪いオマエでも、どちらがまともで誇りある日本人なのかがよくわかるはずだ。

安倍とか言わなくても、そこらじゅうにいる想像力に欠けた人間に云いたい。
敢えてとても私的な話を此処に書く。


「うちの女たち」の波乱万丈ぶりには例外はなく、実姉にもそりゃもう波乱の過去があった。
そのひとつが、ヒガシも子供の頃に住んだという、「川崎、桜本」に暮らした時代の話だろう。
前後の経緯は伏せるが、彼女は当時、人目を忍んで、いわゆる在日の青年と暮らしていた。
日本で生まれ育っているが国交断絶の北朝鮮籍だから、帰化も不可能。
「結婚」しようにも国交のない国籍の相手との法律の壁は分厚い。
陽のあたる職業にもつけない。
在日同士のネットワークで助け合って暮らしている。
焼肉屋、ソープランド、パチンコ屋…etc
嫌でもそういった裏世界にしか彼らの居場所はないのだ。


私が彼らのところに遊びに行った時は、一族皆でそれはもう大変に暖かいもてなしを受けたものだ。
(桜本の焼き肉とキムチの美味しさは忘れないよ!)

その当時、ちょうど私は最初の結婚秒読みだった。
相手は同じ会社同期の、ごく普通のピアノの好きなボンボン。
母親の兄(叔父)は今でいうメガバンクの副頭取。

相手のご両親に挨拶に行った時、姉のことを調べ上げてあり、

親戚に朝鮮人の血が入るのはちょっと…
 従兄妹に今来ている縁談にさしさわる


と向こうの母親が難色を示したものだった。
私の両親はリベラルな人たちなので、
「そんな家の人と結婚せんで良い」とひとこと。
彼は彼で、自分の親がそんなことを言う人間とは夢にも思っていなかったらしく衝撃を受けていたっけ。


どこにでもいる平凡な市民がサラリと提示するこういう差別感。

それが日常で無自覚になされるもの。



たまたま姉はその後紆余曲折があり、その青年とは別れてしまったけど、
私には貴重な経験だったのだ。


「私はいいのよ、でも 親戚の縁談に影響が出るのでね」


こういったセリフ。


だけどこんな理不尽難な理由なら「犠牲」を気にせず押し通すのが私にとっての正義。
世の中の皆がそういう選択をしていったら少しはこの世界も暮らしやすくなるのではないのか。


みな自分のことでないものには徹底的に無知で不勉強だ。
無知は「害悪」であり、大きな罪であるということを 声を大にして言いたいのだ。








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テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

虚無感

HDDを整理していた。
2002年だの2003年だのの画像フォルダを久しぶりに眺めた。
前のマンションでの4匹の猫達。
「幸せだったのにね…」とおもわずひとりごつ。

幸せだった、は 人の方ではなく、猫たちの姿。
この子たちとの時間が幸せで平和だった。

4匹のうち2匹は3年前に旅立ってしまった。
他の2匹も まだ子猫だったり、ぴちぴちの若猫だ。
今は2匹とも年を取ってしまった。
 
そして人間も。


父も母もこの時は元気だったけど もう居ない。



夫とは 続かないかと思った割には続いていて 
この頃二人の間にあった「嵐」は過ぎ去り
それなりに馴染んで平和な日々となり
二人共 年を取った。


この頃  今のように音楽は再開してなかった。
ただ ひとりでピアノを(ピアノの音が嫌いな夫の居ない時に) 練習しているほかは、もっぱら音楽は聴く方ばかりだったっけ。


音楽を(チェロを)再開することで出会ってしまった 色んな人、
出会ってしまったために 起こった 悲惨な事件、
あれ以上の修羅はないと思うほどの凄惨な修羅の末に惨殺された私の心は永らえたものの、今 これは生きていると言えるのか言えないのか?
わからないけれど とりあえず私という人間は日々を暮らしている。

去年の突発的な転落事故が原因で少しばかり健康に制約を受けてしまってるけれど
それだってあの頃 想像もしてなかった未来。




「音楽は魔物」 
と その人は言った。
私と酒を酌み交わしながら。


そうだね。魔物だね。
私達はその悪魔に魂を売ってしまったのだ。
その割には見返りに大した音楽の演奏能力は与えられなかったけどね。


声と引き換えに望むものに全てを賭けた人魚姫と
私達は変わらないのかもしれない。

勝負に負けて最後は海の泡になるとこまで同じなのかどうか。


私にそう語ったその人は
かつては私の人生で最も愛と尊敬を捧げた相手だったが
ある日、すさまじい「鬼」に変貌してしまった。
人は己の魂を鬼に喰らわたら 己も鬼に変わってしまう。
悲しい、悲しい、鬼。
愛しい人の変わり果てた姿を見た
オルフェウスのように 
私もそこで 黄泉の坂をUターンしてすぐさま戻らなければなかったのに
思いきれず
いつまでも亡者と添い遂げようとしてしまったね。
とっくに死んでいるものと。


去年の転落事故の遠因も
その 悲惨な出来事にあるだろう。
あの体験で 心が吹っ飛び 一時はかなり深刻な状態になり
3年かけてどうにか立ち直ったあとも、不眠症状だけが消えず、
その 眠剤が原因の事故だから。
そう考えると、人生って本当に因果、因縁で綴られてゆくのだと感じる。





しみじみと 旧い日々の懐かしさと、
今なお生きてゆくことの心の痛みとを噛み締めたのだった。




テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

病床に母を見舞う

80歳の不治の病の母を見舞う。
小さく別人のようになった母。

ずっと母とは宿敵みたいだったけども
死にゆく者は皆、仏になる。

母は田舎の人で、そういう死生観を持っていた。

死ぬほど苦しめられて憎みあった姑の事すら
死の前には恨みを棄てて世話をしていた。
父が、ハイエナみたいな親族に腹を立てて、
「こんなものがあるから、いけない」と怒って
祖母の位牌をゴミ箱に投げ込んだ事があったが
母は、「仏様にそんな事をしてはいけない」と拾い上げた。


訪問販売のセールスマンにすら礼儀正しくお断りをしていた母。
「ともちゃん、自分のお父さんがそういう仕事で、相手にけんもほろろに追い返されるところを想像しなさい」と言って。

「どんなに前の日に喧嘩してても、朝、家を出る時には 気持ちよく送り出してあげなさい。それきり事故で死んでしまったら、喧嘩別れが今生の最後になってしまうのは良くない」と教育された。
(娘には随分ひどい言葉を投げつけては傷つけてきたくせに)


そういうところのある人間だった事を思い出す。


自分の根幹にも、どこか引き継がれている気がした。


次の正月がない気がする、母。





【追記】

2014.7.21 没。
合掌。










星よりも遠く

時間が経つのは早い。

ついこのあいだ、正月明けのモーツァルト五重奏の集まりがあったような気がするけれど、
10月も半ばを過ぎて、もうネットのバナーには「おせち」や「クリスマス」の文字が躍る。

土曜日はピアノ四重奏の会を主宰し、疲れ果てた。

  

人生は一瞬の夢だというが
こうやって過ごしていれば、時間のたつのもさぞかし早かろう。
暇を持て余せば苦痛が長引くだけだが、
次々予定をたてて忙しくしていれば、瞬く間に消費してゆけるのだろう
 

仕事で時間を忘れる人
趣味で忘れる人
くだらない、あるいは「価値のある」恋愛で忘れる人
そのほかのよくわからない何かへの憎悪で忘れる人
酒やギャンブルで忘れる人
いろいろと流儀があるけれど
要するに皆、人生という、このわけのわからない負担な代物に早く過ぎ去ってほしいのではないか。 
 

猫は自分が今何歳かなどと考えないだろう。
過去を振り返ることもしないだろうし、
先を案ずることもないのだろう。
 

だから猫には「時間を忘れるための方策」は別段必要ないだろう。


だが人間には時として、いろんな余計なものが必要なのはどうしたことだろうか。

”I was born ”という吉野弘の詩を思い出した。


生まれる、ではなくて受動態の「生まれさせられた」 ということ

ここに居てしまった、
そのことに気づいてしまって
とまどうだけで右往左往するのが人生なのかもしれない。
「かなしい」と「さびしい」は紙一重の感情だと感じる。
そうして、寂しさが行き過ぎれば
そこはかとない「憎しみ」が心を傷めつけるだろう。
憎しみはかなしみと等価だ。



星空を思い出しながら
時折
人の心は 星よりも遠いと感じる。



音楽も文化も必要としない猫のようになれたらよいのに、と思う。


==============Oct. 2013
    ★随想目次
星空

テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

WE(僕たち)ではなくて I(私は)

一人称をきちんと責任をもって使う人がいい。


私は人が無意識に使う単語、表現、言い回しを観察する癖がある。


「僕は」といえばいいところを「僕らは」といわれると、引っかかる。

「みんなそうでしょ」
「普通は」
といった言い回し同様、気になる


「僕ら」って誰と誰と誰よ、名簿出してみろよ、と内心思う。
全員の同意もらって「僕ら」って表現を使っているのか。

「みんなそう言ってる」、、、だから、誰と誰と誰がそういってるのか言ってみろよ。
そう思う。


こういった言い回しは発言の責任の所在を曖昧にする「逃げ」だと思っている。
あるいは、「僕ら」と「あなたがた」との間に線を引こうとする排他精神である。


実際には「全員」の了承を取ってないんだから、
「僕は」「わたしは」という一人称できちんと語るべきだと思うのです。


そうすることで見えてくるものがあると思わない?

テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

マッチ売りの少女

「居場所がない」

心の奥でちくちくと痛み続けるこれは、
どこにも居場所がないと感じる気持ちだ。
 
もう15年以上暮らしている相手は、私を嫌いだと明言する。

うわべでは笑い合い、手をつないで歩いたりするくせに
根源では私を拒否し、
彼の軽蔑して憎んできた母親と同じ性の身近な女を、
母親のかわりに軽蔑し拒絶し否定し、憎んでいるのだろう。
 
旅行に行き、夜散歩に出て
満天の星空を一緒に見上げて
一緒に「あれが北斗星」「あれは何座?」と平和に会話をしているのに
その実、定期的に私の心を徹底的に潰して壊すシーンが繰り返される日常。 

だから私は楽しむまい、
心の鍵を開けるまい、と誓う。
楽しい時間は自分にとってはお芝居に過ぎないと思っている。
そうしなければ壊されるから。

そして気づく。

ああ、これって「居場所がない」ということなのだと。

誰も彼もが自分の家を持ち、自分の居場所にいるように見えるのに
私は自分の家にいながら自分の居場所がみつけられない。
では居場所がある、とはどういうことなのだろうか、と考える。
それはおそらく、誰かに心の底から肯定され、受け入れられ、歓迎される場所があることだ。
 

そういえば、私が今 わずかに居場所を見つけているのは
すべて「領収証」の存在する時間だ。
尊敬する音楽家の先生との時間には領収証が飛び交う。
レッスンというのは、誤解を恐れずに言えば、
ある種の経済的利害関係を伴う人間関係なのだから、
私が貧乏になり音楽費用どころでなければ、消えてゆく宿命だろう。

レッスン代が払える間だけ出現する幻の居場所。
そういうことだ。
 

では、それらを「お金で自分の居場所(時間)を買う」という行為に還元して考えてみてはどうだろうか?
一時の幻、一時の癒しを求めて、ホストクラブやキャバクラに通う人たちと、どこに違いがあるのだろうか。
 
 
その軸で考えたならば、私を含め、彼らは全て「マッチ売りの少女」たちなのだ。

マッチをすり続けて夢を観る。
マッチがなくなったら凍えて死ぬだけ。


そう考えたらとてつもなく切なくなった。 
 
ずっと私を追い立てている焦燥感の源は、この儚い自分の足場への不安なのだろうか?

居場所がないまま、さりとて死ねないから回り続ける独楽のように
喘ぎながら生きている、という現実。

私のマッチが尽きる日を恐れながら。
 

テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

芽吹きの春

古い命が終わる冬
新しい命が芽吹く春。
 
新旧交代するのにふさわしい季節だよね。
 

たぶんこの春、
私は、ずっと引きずってた荷物から自由になるだろう。
徐々に徐々に涙とともに心の奥に準備してきたものが
一斉に芽吹いて
古いものを押し隠してゆくだろう。
 

圧倒的な新しい命たちの輝きが
過去を遠い景色に変えてゆくだろう
  

私は出会った頃よりずっと年を取り
死がいつも隣にあるような気持ちになることがある。
 
早く死んでしまいたいのかもしれなくて
だから燃焼し続けて、全力疾走し続けてるのかしら。
 
20代の後半に初めて、自分が死にゆく者という実感を抱いた。
ちょっと早すぎるかもしれなかったけれど 
私は精神的には早熟な少女、と皆に言われていたから
妥当なことだったのかもしれない。
 
きっかけは親が年をとったなと感じたことじゃないかな。
 
できたことができなくなる。
子供の頃に抱いてた圧倒的なパワーがなくなってゆく。
 
滅びてゆく。
衰えてゆく。
そういう気配を既に感じ取った。
 

永遠などはどこにもない。
心の中のファンタジーとしてあるだけ。
 

ろうそくの長さが減っていく一方であるように
人生は終わりに向かってだけ粛々と進んでゆく。 

28歳ぐらいでそう感じていた。
 

だからいつも焦燥感があったのかもしれない。
 
やり残したくない。
開けずに後でずっと引きずるような扉を残したくない、と。
 

良識ある人が、ちゃんと開けずに我慢する扉を開ければ
否応なしに「ドラマ」は始まってしまう。
 
昔 私の大好きなある人(今は立派な文芸評論家になった) が私に言った。
「”これを言ったらおしまい”という一言を主人公に言わせてしまうのが、小説の手法のひとつでもあるよな」
そう。 
開けない扉を開けてしまうことで、物語が始まってしまう。
 
そんなことの繰り返しが私の人生だったけど
後悔はもちろんしてませんとも。
片っ端からめぼしい扉を開けてみたから、もう十分お腹いっぱいです。
 
  
他人に「開けてごらん」とは別に言わないけど。
そうとうに大変だから。
でも、なんでも経験してみて乗り越えたら、血肉になるから悪いことはないと思う。
 

やってダメだったものには全く未練が残らないということは言えるでしょ?
だからいいんです。 
不意打ちみたいな未踏のパターンに出会っちゃったら、
あえなく敗北するけれどね…
何しろ、人生は一度きり。
 
 
今日が一番若くて
明日は今日より死に近づいてる、ってこと。
 


20歳ぐらいをピークにあとは生物的にはゆるゆる下降線、
40代後半ぐらいからは急降下でしょ? 

やりたいこと 知りたいことは全部やってみていいと思うの。
 

 
誰もあなたの人生をかわりに生きてくれないんだから。
 



・・・・血反吐を吐くほどの辛い想いも
いつか「過去の森」の中に守られた美しい物語になる。
  
永遠などどこにもない。
心の中の永遠は私(か相手)の生命とともに消えるから。 
  

暗い広い宇宙の中のたくさんの星のひとつのように
とても孤独に 微かに輝いている。
  

星と星がまたたいて 挨拶する。
 
手の届かない億光年の彼方の星の光。 
だけど私のところからそれは見える。
あの人のところからも私が見える。
 
この心の奥の大切な秘密を道連れに
生が終わる時までただひたすらに歩いてゆこうと思う。 
  

テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

喪失

自分が無理をしていたんだな、ということは
無理をするのをやめてしまった時にしかわからないのかもしれない
 
植物状態のからだから生命維持装置を外してしまったあと。
崖から落ちないようにきりきりしながら掴んでいた腕をとうとう放してしまった後。
 
僅かな望みに全てを注ぎ込んでいるうちは、囚われ、
結局のところ「希望」と言う名の牢獄にがんじがらめになっているのに、
最中では決してそのことに気づかないのは何故なんだろう?
 
ううん。「気づいて」はいるんだろう。
いつだって、終わったあとには全てがわかるのだから。
それは突然わかるわけではなくて、最初からそこに「在った」はず。

同じ部屋の暗闇で、ずっと存在していたそいつ(真実)は、
視界の片隅には入っていたはずなのだ。
 

何度やっても懲りないのは何故なのだろう。
こんどこそ、と誓ったはずなのに、何度も何度も。

口当たりの良い夢語り
たやすく流れる一見美しい涙たち
どうしてそんなものを何度も何度も信じるのだろう。
 

夜空を見上げても、もう、あの星たちのどこにも
「人知れず咲いている薔薇」は存在しない。
私が、その物語の嘘と向き合うことになった時に、
この手で幻想の薔薇の花を手折ったのだ。

心の森の中には、からんからんと乾いた音がこだまする。
 

悲しむものか、と思う。
もう無駄な涙など流すものか、と思う。
惜しんだりするものか、と思う。
 


何年も心の部屋の片隅に、意地になって手放さずに置いていた、
あの緑の小箱を、今日ゴミ箱に投げ入れた。 


もう、何の意味のない箱。
浦島太郎の煙すら入っていない箱。
 
私を縛っていたいろんな約束事を
片っ端からゴミ箱に捨てていったあと

かなしいのに 心は妙に軽やかになった。


こんなに、かなしいのに。
 
安っぽい感傷の罠に再び陥るものか、と誓う。
  
後ろを振り返るヒマもなく、新しいもので埋め尽くしていかなくては、と思う。
 

陳腐化し、意味を失い、かなしいほどに卑小に劣化したそれを、私はどう扱えばいいのか。

次々と捨てながら、どうしても最後のひとつに触れることができないでいるけれど、
とりあえずは、いま触れたくないものにまで無理に触れるのはやめようと思う。
 

さあ、少し、おやすみなさい。
ずいぶん自分に嘘をついて、頑張り続けたね。
もうそんなことはすべてやめて、
無理しないていようね。
自分よ。


night.jpg

 






  

 



テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

人生は1本の蝋燭だ。

去年の今は猫4匹にかこまれてた。
そのうちの2匹は冬になって死んで消えてなくなった。
去年の今頃、私は人生最大級の喪失感の中で溺れかかっていた。
 
一昨年の今は濃い色の夢の只中で無我夢中だった
今は灰になった夢の時間
だけど今尚それは熾火のように消えきらず、苦しんだり悲しんだり。 
いつ消えるのか、それともずっと続くのか、神様しかわからない。
  
今年の夏はもう半ば過ぎた。
木陰の風が盛夏を過ぎつつ在るのを知らせ、
蝉も虫も必死で鳴き続ける。
 

そういえば、私の居場所と確かに思える場所があったことはない。
その日、その時の居場所をみつけ、日々を過ごしてゆくみたい。
でも、そんなものかもしれない。 
それに…、それで充分生きて行けているじゃない・・?
   
とりあえずまだ身体は病気になってない。
それで充分面倒は回避できるだろう。
  
独楽のように回り続け、倒れた時が死ぬときかなと思うことがある。
どうぞ早く終わらせて下さい、休ませて下さい、と神様に祈る。

いつ死んでも別にいいなぁ、と最近は毎日のように考える。
わりと、いつも全開で生きてたと思う。
山も谷も、うーんと深い。
 
開けてみたいと思った扉は片っ端から開けてみた。 
最近は開けなくても中身がわかるようになってきた。
いやでも、懲りずにまた、「開かずの扉」を開けちゃう日が来るかもしれないな。
 
前世だの来世だの、私は考えない。
そんなごたくを並べる前に、現世をどうにかしろよと思ってしまう。
 
現世で全力出さない人は来世でも同じ間違いを繰り返すに違いないと思う。
 

来世で、なんてのは言い訳だ。
来世なんてないよ。
 
「死ねば死にきり」 (高村光太郎の詩)


人生は1本のロウソクだ。
 
燃え尽きて終わってそれきりだ。

テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

猫。

                                  

猫はいつも私の傍らにいる。チェロを弾くとき、ピアノを弾くとき、
夜、眠るとき。いつの間にかすぐ横で寄り添う。
抱きしめてと眼で訴え、濃厚に情を交わし合う。 
 
私の母親は私を抱きしめなかった。いや、うんと幼い頃には抱いてくれたのかもしれないが、少なくとも私の記憶に残っていないのは確かだ。
「甘えてはいけない」というのが常に彼女のメッセージだった。

人間には父性と母性が同時に共存するものだが、彼女は恣意的に父性の側だけで私に接しようとしていたように思う。
本当の父性ならまだしも、父性もどきという質の悪いものだった。
 
暖かな体温で包み込み、抱きしめ、甘えさせ、理屈抜きで全存在を肯定するような繋がりを通じて、人は安定した精神基盤を得ると思うが、私の母親はそういったものを与えることを拒否した。
少なくとも娘にはそういう効果を与えた。
 
ひとつには彼女は人の何倍も神経質で潔癖症な娘(かつての)だったことがあるだろう。 彼女は20過ぎまでにかなり過酷な人生を送った。
気性は激しく、自意識も強く、またコンプレックスも大変強かった。
優等生で美人の妹に比べ色黒で痩せっぽち(娘時代の話だ)の封建的な農家の長女。芸術的才能がそれなりにあったようだが、環境がその開花を阻んだ。彼女は全身で闘った結果、単身誰にも助けてもらわず家出娘として上京し、国立の看護学校の寮に勝手に入った。
住居費も学校の費用も要らなかったからだそうだ。
 
やりたかった勉強をし、やりたかった文学活動もした。
その中でインテリ詩人のはしくれの父親と知り合い、駆け落ち同然で結婚した。

・・・・・とまあ、替わりに自伝を代筆出来るほどに聞かされた物語だ。

彼女のエネルギーの根源は、そういった恨みつらみとコンプレックスだったのだろうか。

東京に出てきた彼女が愛読していたのは智恵子抄の「東京には空がない」というあれだ。まさに、あのままの気持ちだったのだろう。
あまりに神経が繊細だったのか、結婚した頃は、ノイローゼになり電気ショック療法を受けたと言っていた。
いわゆる芸術家肌の面倒くさい気性の女だったのだろう。
 
そうして私の思うに大変な潔癖症だったに違いない。

私が15年ぐらい前、今の夫と出会う以前に声楽は一切生理的に受け付けなかった原因はこの母からの刷り込みにあったと思う。

彼女はいつも「声楽は身体が楽器で、気持ちが悪い」と繰り返していた。同じような理由で管楽器には寒気がするといつも言っていた。
唾液が垂れる管楽器。
そのイメージは潔癖症な彼女には心底耐えられないものだったようだ。
身体的なもの、肉体的な接触や分泌物、全てにおいて彼女は嫌悪感を顕にした。 当然その母親に育てられた娘もそれが刷り込まれた。

「女」という性を彼女はおそらく否定し毛嫌いしていた。
私は小さい子供の頃、「少女漫画は女のいやらしさを育てる」という理由で、漫画を読みたいなら少年漫画にしろと言われた。

小学5年ごろ、家族旅行の列車の中で交流した他所の少年に自宅の住所を教えたら、母に「汚らわしい」と言わんばかりの形相で怒られた。
男に媚を売る、と蔑まれた。 
男に服や宝石をねだるのは娼婦のすることだと固く戒められた。
 

私はだから少女時代、UNISEXなキャラクターとして男子からも女子からも見られていたようだ。
自分の中の「女」を知らず知らず蔑み嫌っていたと思う。
 
いつもひとりだった。
だが、潔癖症な割りには、年長の男性がいつもアプローチしてくるので、男性との交際は中学頃から途切れなかった。
もちろんプラトニックなんだけども。 
家には自分の居場所がないと感じていた少女にとって「恋人」は血縁よりもずっと重要な存在だった。
それは現在まで変わらない。 私にとって血のつながりなど糞にもならぬ、全く重要性の薄いものでしかない。
私は友人も必要でなかった。 恋人ただひとりこの世にいたらそれでよかった。
私にとって恋人は、唯一私が心を開ける存在としての役割が要求されたのだ。
 
 
当時の詩を読むと、情念は人の何倍も濃いのがわかる。
それを全て内側に押し込めていたというわけだ。

それでも年齢と経験を重ねるに連れ、恋人たちの尽力によって、少しずつ自分の中の「女」を解放し、肯定できるようにはなっていった。

しかし母性的な交流への飢えが自分に色濃くあることは、50歳近くなるまで自覚していなかった。
父性論理ばかりに囲まれ、誰も私を母性的に愛してくれなかったし、男たちは私に母性を求めても、私に母性的愛を与えてくれたわけではなかったから。(皆無というわけではないにせよ。)


そして、猫。
猫はいい。コトバがないからなのか、コトバが元々要らないほど自然なのか。 愛することの素直な姿を見る気がする。
目と目を交わし合い 気配をやりとりするだけで情がしっかり通じ合い、抱きあえば互いが強く愛し合っているのを実感できる

母が私に与えなかったもの、誰も私に与えないもの、
これからも私が人に対しては飢え続けるであろうものを、現在のところ猫だけが私に与えてくれる。

私が素直に愛することを受け入れてくれ、素直に愛情を返してくる愛しいもの。
 
でもこの愛しいものは、じきに私を置いて旅立ってしまう宿命のものでもあるのだが…
 


愛する父は2005年にこの世を去った。
私を愛さなかった母はまだ生きているが、癌だというから長くはないだろう。
母がこの世を去ったら初めて私は彼女を普通に愛することができるだろうか?











==============2012
    ★随想目次

テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

火の鳥

高校生の頃、手塚治虫の「火の鳥」を初めて読みました。
原始時代に火口の奥で暮らす一家のシーンがありました。
若者が火口を内側からよじ登って外に出ようとする。
途中であまりに苦しくて自問自答する。手を離そうとする。
そこに火の鳥があらわれ、彼の問に
「あなたは今生きているのだから生き続けなければならない」 と囁く。衝撃的でした。

「意味」 などは元々存在しない。 
あらゆることに「意味」を求めるのは、人間という不完全な生物の病だろうか?
意味を求めなければ苦しみはないのだろうか?

猫も鳥も「意味」にしばられず、ただ”今”を生きているように見える。
人はそのようになれない生き物らしい。 これは自分自身を振り返り常日頃思うことだ。
「般若心経」は、だからこそ、ものごとへの意味づけ(「色」)を捨て去った「空」を夢想してみせるのだろう。

 
少女の頃に出会った、生と死の象徴である手塚治虫の火の鳥の言葉は、
その後ずっと自分の心の底で密かに響き続けている。
 

吉野弘の詩ではないが、生まれるということが英語では受動態なのは象徴的だ。
I was born.  
人は生まれさせられる。 自分で選んで此処にいるわけではない。
そして、有無をいわさずそこに在ることになってしまったからには
命をもぎ取られる時まで生き続けるしかないのだなぁと。

 
ならば生きることは 「諦め」か?
そう感じる瞬間がある。
不思議なことに、自分は、生きることの「意味」を問うたことはない気がする。
なぜ生きなければならない?と考えることはなかった。
もういいです、もう余命を返上しますから、あの人とアノ人と猫に分配してください、と神様にお願いすることはあっても。
  
神様がまだ私の余命を所望しないから、
なかば諦めのような気持ちで「あの角までとりあえず」と思いながら、
のろのろと足を進めている
 
きっぱりと「あなたは生き続けなければならない」と私に言い渡し、背中を押してくれる火の鳥がいてくれたらいいのに。
 

 


      自作詩と随想  目次


「つながる」

例えば女としての私にダイレクトな興味を持たれるよりも、
今の自分は 
私の 音 や 私の コトバ を通してつながれる人だけを 求めてるのだろう。
 
男とか 女とか 大人とか 子供とか 恋とか通り越して 
そういうとこから繋がってくれる人だけが ほしい

そういうのでしか 私の淋しさは埋まらない  


刹那が永遠
刹那がすべての真実
 

八木重吉の書いたように、「これを読んで (これを聴いて) 私をあなたの友にして下さい」
そういうこと。
 

自分の猫と心が通わせられるように誰かと情を通わせ合えるのなら それは素敵だ。
そんな繋がりら欲しいけど
哀しいかな、
人間にはコトバとか自意識などという邪魔なものがワンサカあるから
大抵の人はそれにスポイルされて、純粋に誰かとすんなり通じ合うことは難しい。
たぶん私も。
 


ぽくぽくひとりでついていた
わたしのまりを
ひょいと
あなたになげたくなるように
ひょいと
あなたがかえしてくれるように
そんなふうになんでもいったらなあ

(八木重吉)

 

それができないかわりに、その代償行為として
詩や 演奏した音楽 という自分の「作品」を通して抽象的につながりあうことを私は求めるのかな?
生身は痛い。生身は怖い。それでは傷つくことはあっても、多分満たされることはない。


猫と成立しているようなレベルでひとと何かを共有ができるのなら それが私の一番欲しいもの。
でもそれは奇跡みたいなもので手に入らない。
それが出来るのは本当の魂の片割れのような相手だけだ。
そんな人に私はこれまでの生涯で2人だけ出会ったけど 2人とも一緒にはなれない出会いだった。
腕をもぎ取られるみたいに別々に生きることになった。
恋だの情欲だの、そういう話じゃなかった。もっと根源的なものだった。
失ったあとに私の心はそこにフックされたまま 以後、他の誰にも同じようには動かされない。

  
だけど、音楽でもコトバでもいい、自分の「作品」というゲートを通じてなら、
違う意味で誰かに届くことが出来るかもしれない
生身でガチで向き合って心と心をわかちあうことはしないけれど
知らない誰かと
心の中に同じ「種」を共有しながら  交差することのない人生を歩む。
 
それはまるで
夜空を見上げて あの無数の星のひとつに自分の友達が棲んでいると信じることが出来た瞬間のように
私の心を励ましてくれるかもしれない。
そうだ。
「星の王子さま」の中で、王子様がバラの花に思いを馳せて語ったセリフのように。
  

私はもう そういうものしか求めていない。
 

私の心を動かすような音楽
私の心を動かすようなコトバ
私の心を動かすような○△□…
 
そして 私の何かが同じように 誰かの心の奥底に届くこと。
 

この文章はただの心のスケッチ。
 
 

なんていうかな・・・   
泣きたいけど泣けない
だから泣くかわりに 弾いている気がするのだ。
 
  

テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

冬の海

きのうは ずっと雨で寒いなと思ってたら 夜になって 雪
寝る前に外を見たら 積もってる
 

暦ってすごいよなと毎年感心する。

寒の入り、大寒…  という今の時期は
律儀にちゃんと冷え込んで、雪が降ったりするのだもの。

冬のハイライトみたいな寒さの、すぐあとに「立春」


このコントラストが、ね。


いちばん寒い気がしても、冬至からは既に1ケ月過ぎていて、
日が長くなってゆく、季節の上り坂の途中なんだよね

 
冬の太平洋側気候が好き。

へそ曲がりだった若いころの私は、
一番好きな季節が冬だったし
海は夏には行かず、冬に見に行っていたっけ。


いまぐらいから2月にかけての南伊豆の海が大好きだ。
27歳のとき、取り立ての免許が嬉しくて、
旦那(当時の)の出張留守の週末の朝、
起き抜けの青空に、すべてを放り投げて、ひとりで車を走らせた。

20歳のころ、恋人(当時の)と眺めた2月の石廊崎の海が忘れられなくて
石廊崎まで行こうと思ったのだ。
 
東伊豆から海沿いに延々無計画に走り続けて
石廊崎で夕陽を見たけれど
ガス欠寸前。
たった一軒のGSでガスを入れたけど
体力を使い果たして帰れる自信がなくて
車に積んでたペンションガイドで南伊豆のペンションを探し
公衆電話(当時は携帯なんてないからね)から宿泊予約をし
飛び込みで泊まったんだ。


海の見える小さなそのペンション「ビートルズ」には
若い女の子2人連れが泊まっていて
夕食が相席になった。
 
話が盛り上がって
翌日 修善寺まで彼女たちを送りがてら、
西伊豆の景勝スポットを案内したっけ。
修善寺の町で「お礼に」といって蕎麦をごちそうになって、駅で見送った。
 

晴れ晴れした気分で家に戻ったら
出張から旦那が帰ってきていて
からっぽの家に憤怒してたっけね。
 


20歳のとき 恋人と行ったと書いたけど
それは風の強い冬の晴れた日だったのだ。
  
「こんな日はね ”うさぎのしっぽ”が見えるんだよ」

と彼は言った。

うさぎのしっぽ、っていうのは
強い風が海面にたてる、ちいさな波頭が一面広がる光景 


あれ以来  今の時期に
厳しく寒く 強い風の吹き荒れる ピーンと張り詰めた晴れた空をみるたび
南伊豆の海にひろがる「うさぎのしっぽ」 が 脳裏に浮かぶのです。 


「ああ いま あそこでは うさぎのしっぽが… 」
 



      自作詩と随想  目次


テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

父よ。母よ。弟よ。

父を亡くしたのは 去年の秋口(※注)のこと。

この春 父が世話人をしていた詩の同人誌から、追悼集が出た。
それを知ったのは ごく最近だった。
弟が 生前の父に託されて、詩人達と連絡を取り合いながら話を進めたということだ。
詩人としての父を、
弟よりも多分愛していたと自負している「娘」は
最期の仕事に関わる機会すら与えられず、
その間 静かに無視された。


突然 受け取った その遺稿集には 
「遺族からの寄稿」ということで
母と弟の文章が載せられた。


私 は 遺族ではない。 
私 は 父の 後継者 ではない。
詩のひとつも縁がなかった弟に 
父は 詩人としての自らの「その後」も託してしまった。


私 は 疎外された存在。
そんな悔しさが 静かにわきおこる。
何度も味わった この種の疎外感。
それは いつから 宿ったか。


まず、姉が生まれ、3年後に 私が生まれた。
「また女」と落胆された。
しかし 私は ある年齢まで 「長男」として育てられたように思う。

勉強もできたし学校でも目立っていた。
音楽をやらせたらやらせたで、どんどん上昇気流に乗った。
だから。
たしかに ある時期まで 男 として 育てられていた。 
母親に。
(拙稿「黒いランドセル」参照)


7年後 弟が生まれた。 待望の「長男」の誕生。
産院から帰る父親は小躍りしていたそうだ。


「長男」が高校生になる頃 娘 は 少しずつそれまでの役割を剥奪された。
それはそうだろう。本物の長男が登場したのだ。
代替品にはもう用はない。


静かな疎外 が始まる。


・・・・大学。

私が本命の国立に落ち、
滑り止めの早稲田に合格したとき、母親は何と言ったか。
『国立に落ちたんだから就職しろ』の一点張り。
父親の取りなしで どうにか大学に入ることができた。

・・・・就職。
現役合格、留年なしで卒業して、いわゆる「一流企業」と呼べるところに就職した。
これで母親にも認めて貰えるのだろうかと たぶん私は思ったはずだ。
母親のご機嫌取り。
そして 社内結婚。

そのころ 弟の大学受験を迎える。

弟は いつも 私の後を追っていた気がする。
高校受験のときは 私の行った高校を目指したがかなわず、1段下の高校へ。
そして 大学受験。
やはり 目指したとおりにはいかず 2年も浪人生活を送る。
その結果が 明大。


母親は何と言ったか?・・・・・何も云わない。
『男の子なんだから』
何が??
就職しろとは 口が裂けても言わなかった。
私の時とは違って。
2年浪人しただけではない。
弟は その後 ご丁寧に「留年」までしたのだった。

しかし 母は 何も云わない。


・・・・・・・・・・・おそらく 母も弟も 
そういったことに一生無自覚=イノセントなままなのだろう。 
私がこのように心の底にずっと消えぬものを抱えていることなど気づくはずもない。

そう。
疎外は まだ続く。

10年ほど前に父が 
生まれて初めて 分譲マンションを購入しようと
物件探しをしていた頃のこと。 
不動産購入経験が2度ほどある私は、
乞われて、一緒に物件を見につきあったものだ。

ある物件はメゾネット方式になっており、室内に階段があった。

母が ひとりごつ。

「こんな階段があったら、
もし将来 ●●(弟の名)のお嫁さんが
妊娠でもしたとき、危ないわよね」


その台詞を聞いたときの私の心中がおわかりだろうか。
母にも弟にも永遠にわかるはずのない、ショックを。


話せば長くなるが聞いていただきたい。


その1年ぐらい前のこと。
私は切迫流産で大学病院に入院していた。
私の2度目の夫と暮らし始めて半年ぐらいのことだった。
夫は多重債務者だった。
しかもそれは結婚することが決まってから明かされた秘密だった。
内部事情もいろいろあるが、
私は信じた人に手ひどく裏切られたという想いから癒されぬまま、
どうにもならぬほどの借金に追われる生活のさなかだった。
調べてみると夫の多重債務は優に1000万を超えていた。
悪いことに私自身がバブル崩壊で不良債権化した中古マンションのローンを抱えて身動き取れなかった。
経営参加していた社員数名の零細企業は売上が立たず給与も遅配。
しかも夫の(生い立ちから来る)性格的な問題点も明らかになり、
不安のどん底の中での妊娠だった。

私が走り回らなければ会社が回らないのに
入院などしていられる身分ではなかった。
おまけにK病院は大部屋がなく差額の必要な2人部屋。
経済的事情で、
たとえ産んでも 自分ひとりでは 育てられない、という絶望。

それだけではない。
もっと深刻な不安があった。
産んでも 
夫がどう子供に対するのかを想像したら恐ろしくて産むことを躊躇した。
なぜならば夫は崩壊家庭の子息で、父親を激しく憎んでいた。
彼が母親の腹の中にいたときに
こともあろうに実父が
「経済的に無理だから堕胎せよ」と
家計簿を証拠書類に家裁に堕胎を申請したのだそうだ。

父親に殺されかかった子供。それが彼だった。

その憎悪は計り知れなく、
父と息子の間の確執を温存したまま生きる夫は、
生まれてくる子供が万一男の子だったら、間違いなく・・・・・・

もちろん夫は妊娠を喜んではいなかった。


そこへ 見舞いにやってきた母親は、こう言ったのだ。

「あんた、
 自分たちだけでどうにかできないんなら 
 早いうちに始末(=堕胎)しなさいよ。
 親をアテにされても困るんだから」



一生忘れない、その台詞。


あの入院時代は忘れもしない。
病室は2人部屋だったが、
隣のベッドには家族全員から妊娠を祝福された妊婦が寝ていた。

私は孤独だった。
誰も味方がいないと思った。
おそろしかった。


娘には 
子供を始末しろという台詞を平然と吐いた その母親が
当時まだ恋人の影すらなかった弟の 
「未来の赤ちゃん」のことを 心配する。
その残酷さ。

あなたに わかるだろうか。
私の心中が。


・・・・・・・そして 父の入院。死去。
確かに私は一緒に暮らしていない。
だからといって。
やるせないのは、
母も弟も 
まるでそんなことには気づきもしないだろう、という現実だ。



私は この淋しさを どこにぶつけようか。

そう。
そういうときに 心をみつめ
自分を保つために
「書く」ということを
その生き方で教えてくれたのが 父だったのに。


私は 書く。
私は、こうやって コトバに向き合う。

そうすることによってしか、私は私をつなぎとめることができない。

父よ。
母よ。
弟よ。

私は あなたたちから 静かに疎外され 遠くにいる。
遠くで 今日も ことばと格闘している。




2006年初稿

(※注) 2006年時点。父は2005年秋に他界した。





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テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

かけがえのない、今

春の美しい時期は、なんと短いのだろう。 


近所に雑木林の美しい散歩道がある。 
天気の良い春の一日に、ふらりとそぞろ歩きで小一時間。 
私の「太陽電池」は それだけでも充電される。
たった5日後にはこの芽吹きの美しさは失われ、濃い緑が浸食してくるだろう。
そう。まぎれもなく「失われる」のである。
私には、それがまるで永遠に失われてしまうかのように胸が痛むのだ。


人は云う。「春は毎年巡ってくるじゃないか」と。
『今年がだめなら来年でいいじゃない。』
気軽に言う。

だけど春は何度でも来る、だなんて ただのレトリック。
「去年の春」と「今年の春」と「来年の春」。
ひとつひとつが、かけがえのない、取り返しのつかないものだ。



こんな感覚におそわれるようになったのは
多分 30代半ばぐらいから。
世間的にはまだ大した年齢ではなかったのに、自然や季節に対してやたらと過敏になった。
春に萌えたつ雑木の散歩道にさしこむ、輝くばかりの木漏れ日の美しさにさえ、たまらず涙ぐんでしまうほど過剰にセンシティブになった。
確かにどうかしている。 

だが、何かが私をせき立てる。 


  このひとときは、取り返しのつかないひととき。
  このひとときは、「いのち」のひとしずく。 
  このひとときに対して真摯であれ。 


この一日が another day と同じだなどと誰が言った。 
one of them だなどと。


そう。
春は年に1度 ”しか”めぐってこない。 
それはどういう意味かというと、
ひとはだれも自分の寿命分しか春を楽しめはしない、ということだ。

それは配給の限られた限られた貴重な『資源』。
あなたは今何歳?
例えば40歳だとしようか。
もし80歳で死ぬならあと40回しか春は来ない。
4000回ではなくて40回。
たったの40回。
1から40までなんてあっというまに数え終わる。
目の前の春はそのうちの貴重な1回。


私がこんなに思い詰めたのだから、75過ぎた父親や母親【注】にとっては、この美しい春はどのように映ることであろうか。


この春、父親は都内各所の桜の名所の公園などに精力的に出かけたようである。
「急がなければ」という気持ちになっているのかもしれない。
最近 しみじみ考えるのは そういうことばかりなのである。


人生に
「かけがえのないもの」
「とりかえしのつかないもの」
そういうものばかりが折り重なってゆく。
ひとひら、また ひとひらと舞い散る桜の花びらのように。



【注】 2005年秋現在 父は病床で寝たきりとなり
    逝く日を数えるばかりとなった。
    父はおそらくもう一度春を迎えることはないのだろう。




2011年追記:

父は2005年9月23日永眠した。二度と春と味わうことはなかった。
本当にあれが「最後」の春になった。




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テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

「私たちは皆、無自覚に病んでいる」

山本文緒の「シューガレス・ラブ」という短編集を読んだ。
そのなかの一編 「秤の上の小さな子供」 より。



登場人物は柊子と美波という二人の女性。
二人は大学時代の友人だったが
ある日 街で再会する。

美波の現在の職業はソープ嬢。


美波は昔から並はずれてデブだった。
それなのに 学生時代から何故か男にもてた。
納得がいかない柊子。柊子は必死のダイエット中なのである。


美波のことば。

   「ねえ、本当に面白いわね。
    もてたかったら 痩せろって 世の中は女の子を煽ってるじゃない。
    雑誌でもエステの広告でも。
    でも、痩せてようと太ってようと 美人だろうとブスだろうと、
    もてない女はもてないの。」

柊子 「美波はもてるものね」

美波 「そうね。私には自分がないから」

柊子 「?」


美波 「ねえ、私が今まで会った人の中で 
愛されたいって思ってない人は一人もいなかったわ。
    男も女も、あなたもそうよ。皆愛されたがってるの。
    話を聞いてほしくて、 肯定してほしくて、
    頭を撫でて可愛い可愛いって言ってほしいの。

    だから私はそれをしてあげる。 ただそれだけのことよ。

    世の中には愛されたがってる人ばっかりで、
    愛してあげられる人はほんの少ししかいないの。
    貴重がられて当然よ。」




柊子は、痩せさえすれば、
テレビなどで見かける女の人のようになれば   
自分も幸せになれると思っていた。
だけど 彼女は結局のところ  18のときと変わらず
何も持っていない不安な、孤独な子供のままだった。

少しでも太ったら  もっと失ってしまうような気がして
食べ物が喉を通らなかった。

彼女は疲れ切っていた。


美波を通して 柊子はやっと気付いた。
自分がこんなにも飢えた子供だったことに。
それなのに
どうやってものを口にしたらよいのかわからないのだ。



  そして小説のなかの「柊子」は語る。(以下引用)



美波にしても ただ単に「もてている」だけなのだ。
彼女は穴の開いたバケツのようなものだ。
いくら入れてもいっぱいにならない。
そして人がものを入れなければ、彼女はタダの外側だけなのだ。
自分がない、ということはそういうことだろうか。




この一編は強烈に私の印象に焼き付いた。

美波のいう、それは ほんとうに  「愛する」 ということだろうか?


自分のない人に  話を聞いてもらって、
片っ端から肯定してもらって、
頭を撫でて  可愛い可愛いって言ってもらうこと、

穴の開いたバケツに 自分という液体を ありったけつぎ込ませてくれること、



それが「愛されること」だと  あなたがたは錯覚しないほうがよい。

もちろん それが「愛すること」だとも。




2006年初稿




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テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

潔い女(ひと)

1990年台前半か半ばのことだったろうか。
「彼女」はとても印象的だった。

私の仕事はいわゆるシステム開発屋さんであったが、
当時は「コンピュータ教育」の項目でもタウンページに登録していた。
「彼女」はそれを見て飛び込みでやってきたのである。
 

それは、ある日かかってきた
「パソコン教えてもらえませんか」
という電話から始まった。

私の会社では、個人相手のパソコン教室はやっていなかった。
電話の向こうの彼女は臆せず続ける。
「お金がないから1日分しか出せないんですが」
 
普通ならば即座にお断りするところだが、
私は彼女の様子にたいへん興味をそそられた。
たまたま手が空いていたから、そのまま話を聞いてみることにした。
結局のところ、1日だけ、しかもたった1万円という破格の料金で
教えられるだけのことを教える約束をしたのである。
これは完全なボランティアである。
その動機は、彼女という人物に対する「好奇心」だった。


そして約束の日、「彼女」はやって来た。
見ると、お腹が大きい。
聞けばアメリカから帰国したばかりという。
彼女は20代後半、配偶者の転勤で日本に戻ることになり、
一足先に住居探しなどのために帰国したそうだ。
もちろんダンナの稼ぎだけでは暮らせない。
パソコンのプライベートレッスンを受けるのは、
日本での就職を少しでも有利にするため。
彼女が渡米前に持っていた僅かなワープロの知識だけでは
役に立たないと思ったのだそうだ。

それはそうだろう。
この世界は日進月歩なのだから。

「でも1日では大したことは出来ないですよ?」
と聞くと、それでもいいのだ、という。
面接で「はったり」をかませられるように、
とにかく付け焼き刃でいいからどうにかして欲しい、ときっぱり述べる。

その迫力にこちらも「やれるだけやりましょう」ということになった。


さて、レッスンの合間に雑談していたところ、
彼女は「足立区」に住む予定だという。
なぜ足立区なのか?
その理由を聞くと、これがまた面白い。



子供が生まれる → 生活できないので自分も稼ぐべし 
        → 子供を預けなければ働けない
        → お金はない
        → 公立の長時間保育園に入れるべし
        → 当然、どこも待機児童でいっぱい


ここまでは皆さんにもお馴染みの状況だろう。
普通はそこでフルタイムを諦めたり、親に泣きついたりするのだろう。
ところが、彼女はその先が普通と違うのだ。


「あちこち役所に電話をかけまくるんです!」


そうやって絨毯攻撃をした結果、足立区でやっと空きを見つけたというわけだ。
かくして、引っ越し先は足立区に決定。 


素晴らしいではないか。
実に明解だ。
私はこういう「潔い」人がとても好きである。
自分の目的が大変明確で、その為のメソッドを無駄なく実行できる。
とても筋が通っていて、聞いていてものすごく気持ちがいい。


お金がないからフルタイムで働く。
面接でハッタリをかますために、パソコンのイロハを1日で身につけようと思う。
そのために体当たりで電話帳片手に予算内で望む結果を与えてくれるところを見つけだそうとする。

予算的にも公立長時間保育園が絶対条件。
だから、保育園が空いている土地に自分の側が移住する。
 
ロジカルだ。


彼女は「実現できないことの言い訳」を絶対にしないだろう。
「地元に空きがないから仕方がない」というのは言い訳で
現実には空きのある土地に自分が移住するという選択肢があるわけだ。
どちらを優先するかの問題であって、優先順位をつけて選ぶ主体はあくまでも本人だ。



誤解しないで欲しいのは、
私はすべての人がそういう選択をすべきと言っているのではない。
地元にいたい ということの優先順位がより高いために、
そのために公立保育園をあきらめる、
またはフルタイム就業を諦める、と、
自らの意志で明確に「選択」するぶんには問題はないのだ。

真の理由をごまかして責任転嫁することが潔くない、と言っているだけだ。

彼女のような人がもっと増えたら世の中は大分住みやすくなるのだが。


彼女は今も何処かで元気良く、彼女の息子か娘と生きているのだろう。
そう想像するとなんだかこちらまで楽しくなってしまう。





余談であるが、いつだったか朝日新聞投書欄である専業主婦の投書を読んだ。
専業主婦優遇策(年金掛け金タダなど)を見直すという政府の方針に対する憂慮の投書である。


「結婚したら退職しなければならない会社だったので、
退職し、今は子供が出来て働けない。 
なのになぜ?
 社会のせいなんだから、
責任取ってくれてもいいじゃない!」



たしかこんな趣旨だったはずだ。
 
つまり自分が現在収入がないのは自分のせいではなく、夫や世の中のせい。


だから、自分の保険料は
有責者である側が負担してくれるのが当然なのに、
なんで後ろ指さされなきゃいけないのだ、
というような感覚である。

思わず、苦笑してしまう。
そして、「足立移住予定の彼女」のことを思い出してしまった。
おそらくこの主婦に彼女のような人のことを話しても、
「そう言う人は『特別』な人なのよ。
皆がそんなに『強い』わけではないわよ」

とでも言うのだろう。
(この辺、内田春菊の「幻想の普通少女」などを連想しつつ書いている。)



彼女は『特別強い人』でもなんでもない。 
自分の人生を自分で選びとって、
それを納得して生きている「潔い人」であるだけである。
「強い」からそうするわけではない。

勘違いしてもらっては困る。


そもそも女子社員は結婚したら退職、
という方針のその会社を選んだのは誰?
 
この主婦は30代前半だったから、時代的には他にも選択肢はあったはず。
本人がOL時代に「いつかは寿退社」と思ってだけのことでは?


百歩譲っても、それで風習に従って会社を辞めたのは【自分が選んだこと】であると何故自覚しない?
世の中にはそういう会社方針に逆らって
自分の意志を貫く女性はいくらでもいる。
選択肢はあったはずだ。
少なくとも 「何か」と天秤にかけて、
角を立てない方を自分が選んだはずだ。


『その方が楽』だから。


だから 「結婚退職」は自分が選んだことであって、誰のせいでもないのである。
結婚したら家に入って欲しいというダンナを選んだのであれば、それも自分の選択。
(もしくは、そういう価値観の男性に
 「私は家庭的よ」と媚びを売ったのかもしれない。)

全ては「自分のせい」である。
世の中のせいではない。
自分が好きで維持している御身分に対して、
なんで他人が保護してやらなければならない?


子供が居るということ自体は、
本来は働けない理由には全くならない。

それで働けないというのは 自分の中に理由があるのである。
決して世の中のせいではない

専業主婦を選んだのが
まるで不本意であるかのような物言いが、中途半端で不愉快である。
いいじゃないの、「専業主婦」で。

「私って働かないですむなら働きたくないし、
 専業主婦の方が向いてると思うからやってるの。」

・・・そう明言すればよいだけである。
但し、自分の趣味でやってるわけであるから、
それをお上や世間に優遇してもらう「権利」があるなどと
思い違いしなければいいだけのことなのである。


そう。それだけのことである。

本来 有職者と無職者は 同等だ。
どっちだっていいのである。

自分が選んだという自覚と責任さえ持てれば。それが自由というものだ。

「お金がある人に 自分の分まで払ってもらおう」
 という発想は、乞食の発想だし、とても意地汚くて嫌いである。
 お金がないなら、稼げばよい。
 単純なことだ。
 あれこれ理屈をつけて言い訳する必要なんかない。
 病気で動けない人は保護の対象になるが、
 健康な人を別に保護する必要はないではないか。


自分のことは自分で。
自分の人生は自分で選び、自分で落とし前をつけよう。


働くも働かないも自分の自由。
だから
その結果生じる経済力格差もまた、
自分の選んだことである。


・・・・たったそれだけのことである。 なんて簡単なんでしょう!

みんな、もっとロジカルになろうよ。



(随分前に書いたものを加筆訂正)



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テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

根源的な渇き

子供の頃の思い出というのは、一種のパラレルワールドのような記憶の仕方だ。
みなさんも覚えがあるのではないだろうか?
それは、距離感や時間軸が歪んだ、なんだか不思議な感覚である。 
本当にあったことなのかしらん、と思うような記憶である。

そんな断片的な記憶のなかから、いくつか拾い出してみる。
 
ふたつともクリスチャンの話だ。

小学校5年生のころ、日曜学校に通っていたことがある。
私は今も昔もクリスチャンだったことはない。
単に同級生に誘われて行ってみただけである。


私が通ったのは、地元のキリスト教短大の神学生達が運営している日曜学校だった。
まず教会で聖書を読み、賛美歌を歌い、献金をする。
そのあといくつかのグループに分かれて小さな教室に移り、めいめいに聖書の勉強をするのである。

私の母親は、私がそんなところに通うことにはいい顔をしなかった。
彼女はなんであれ家族が宗教や思想的活動にかかわることを嫌がっていたからだ。

でも私は通った。
神学生のお姉さん、お兄さん達は皆親切で優しかったのを覚えている。
それは子供の私にとって「癒やし」を感じさせるものだったのだろう。

ある時、学生同士の結婚式が学内で催され、
短大の広い庭に敷かれた赤い絨毯の上を、
つつましやかな新郎新婦が歩いていた。
美しくて胸が詰まるような光景だった。
子供達は大喜びだった。
 
「感謝祭」の時期には、施設訪問などのイベントがあった。

私たちの班は、知的障害児などの暮らす施設を訪問した。
一日、子供達を遊んだりするのだが、帰り際に
園児達が門の外まで見送りに出てきて、いつまでも手を振ってくれて、
子供ながら煮胸が熱くなったのを今でも思い出す。
 
また、いつかは 奥多摩で飯盒炊爨というイベントがあった。
世の中にはこんなに楽しいことがあるのかと感激したものだ。
 

こうしてみると、小学校でのイベントよりも
余程鮮明に心に残っているのが不思議だ。 
自分が受け入れられるという安心感がたしかにそこにはあったように思う。
家にも学校にも「居場所」がなかった自分にとって
それは本当に心安らぐ時間だったのだろう。
 
だって、自宅では いつも私を否定し続ける「彼女」と向き合わねばならないのだもの。 
抱きしめてもくれず褒めてもくれない彼女よりも
常にやさしく自分を受け入れてくれる神学生たちは心惹かれる存在だった。
 
今思えば私は、母性的な存在に飢えていたんだろう。
私の母はそういう存在ではなかった。
私は「無条件に自分を受け入れてくれる存在」としての母親を持ったことがなかった。
 


母の抵抗もあり、中学校に行くようになってから自然と足が遠のいたが、あのころの僅かなキリスト教体験というのは色濃く私の精神の基盤にしみ込んでいる気がしてならない。


クリスチャン といえば、もうひとり忘れられない人がいた。


中学2年の時、産休の代用教員として短期間教えて頂いた若い女教師。 
仮にA先生とでもしておこう。

彼女はいつも柔和な笑顔で、穏やかで、まさにマリア様のように優しかったのである。 

当時(20代までだが)私は生理痛が激しく、よく保健室で休んでいた。 
ある日、いつものように激しい生理痛で、私は教室で失神した。
保健室のベッドの中で脂汗をかきながらふっと意識が戻ったとき、
A先生がベッドの横で私の手を握っていてくれたのに気づいた。
胸が熱くなった。言葉が出なかった。
 

そんな体験は生まれて初めてだったのである。


私の母は いつも厳しくて甘えさせてくれたことがない。
「だっこ」の記憶がまるでない。 
看護学校出だから子供が怪我をしようが動じない。
転んで足にひびが入ったときも「またお金がかかるじゃない」と冷たく言われたことしか覚えていない。
たぶん言った本人は何も覚えていないだろう。

でも私にはそれは突き刺さった。
だから私は甘えない子供になった。


A先生のその慈愛に満ちた接し方は、私を妙に揺さぶった。
これまで、束縛、支配といった『悪しき母性』以外知らなかった自分、
『善きもの』としての「母性」について、全く恩恵を受けてこなかった自分にとって、
カラカラに乾いた大地に雨が降るように 
それは強烈に染みこんだのに違いない。


同時に自分もあんな風になれたら、と切なく思ったことを覚えている。 
13~14歳のころの話である。 
 


母とは母が70を過ぎた今なお、確執を感じる。
水と油のように合わない二人の女。
だけど私は彼女を理解していると思う。
なぜなら理解しなければ押し潰され呑み込まれてしまうと思ったからだ。
母親だと思わなければそれでいい。 
 
ただ、「誰かに無条件に受け入れられること」への渇きは
未だに満たされることはない。
人生の最初にきちんと満たされなかったもの欠いたまま生きてくると、
あちこちで不安定さが露呈するのだなと何度も感じてきている。
求めすぎてしまう。
そうしてバランスを崩す。
 
帆の破れた帆船の操縦が困難なように、
いらぬエネルギーを必要とする。
 

この渇きは色々な場面で形を変えながら
いつも自分の心の根底に横たわっていると思う。
 




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テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

理屈っぽい小学生

小学校の時。

理科で人間が色を知覚するしくみについて習った。

人間の目が特定の波長の光に感応して、「赤」く見えたり「緑」に見えたり、というやつ。
小学生だった私の悩みはその日から始まった。

光線のなかのある波長のものを反射するから、ある特定の色と感じるのなら、
私が赤いと言っている色は、本当はどんなものなの?

自分が赤と呼んでいる色と、
他の人が赤と呼んでいる色は本当に同じなの?

私が感じているのと同じような色に
他人が感じている保証はどこにもないのでは?

色だけじゃない、
知覚というものがそういうものならば、
物質の本体を確認するには何に頼ればよい?
あらゆる知覚は脳の情報処理を経てから認識されるわけで、
それならば
そういう情報処理を経る以前の物体の「すがた」は確認できないではないか?

私の「青」は
あの人の言っている「青」とは違うかもしれない。



では あの人と私が「青」というコトバでやりとりして了解したつもりになっているのは
幻想かもしれないわけだ。
なにもかもが相対的で不確かなのだ。



私は自分なりの納得できる答えが見つからない問いに対して何年でも考え続ける癖がある。
「まぁいいや」と看過できない。
要は「執念深い」のだ。


さて、そうやっていつまで悩んだろう。


14~5歳の頃だったろうか? 自分なりに納得したのはこのような解釈だ。


私にとっての「青」と
あの人にとっての「青」は、
言葉は同じでも
指し示す意味が食い違うかもしれない。
しかし
私にとっての「青」と
私にとっての「緑」は
絶対的に異なる。
つまり、その差分だけは
確実にこのふたつの間には距離があり差がある。

だから・・

少なくとも、その差の分が存在する、ということは
揺るぎないものと信じてもよいのではないだろうか?



といったようなこと。


ああ、なんと理屈っぽい少女だったろう。
今もこのしつこさは健在ではあるが、
少しはいいかげんになれたかもしれない、と思う今日この頃。



そういえば、母親が言っていた。

幼児期に私が言ったという台詞。

「神様は氷のお城に住んでいる。
 神様がいるかいないかは
 そこに行ってみなければ
 わからない。」




やはり随分と理屈っぽい幼児だったらしい。
しかし、かわいくないね。





初稿 2005年


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テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

黒いランドセル

昔々、その昔。

小学生になったとき、私は「黒いランドセル」を与えられた。
3つ年上の姉のときはピンクのランドセルだったのに。

母親の台詞を覚えている。

「男の子だから黒、
 女の子だから赤と決めるのはおかしい。」


だから私には黒いランドセル?

小学校へ通う途中で、学校の中で、
他人の好奇の視線を浴びながら
私は黒いランドセルで学校に通った記憶がある。 
別に 赤いランドセルが欲しかった、と
思ったわけでもないのであるが、
やはり、他人の視線の集中は負担だった。

授業参観の日。
私はランドセルのベルトを締めるのが
他の子供より少し遅かった。

その日、帰宅してから、それが早くできるようになるまで
何度も母親に「練習」させられたのだった。

その、「黒いランドセル」で。



今なら言えたのだが。

「男の子だから黒、
 女の子だから赤と決めるのは
 確かにおかしいかもしれない。

 でも、だからといって
女の子に 黒 を持たせれば解決するのか?

 それを言うのならば
小学生にはランドセル、と決めるのが
 そもそもオカシイ、ってことに
 何故 ならない?

 全然 論理的じゃないよ」

と。

しかし かなしいかな。
小学1年生の子供に、
そんな理屈をコトバにしてみせる芸当は
できなかった。

もやもやとした
納得できない感情を
内に秘めつつ
緊張しながら学校に通った
遠い日々。

母親のイデオロギーの実験台にさせられた
ある娘の話である。



2005年8月17日初稿





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テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

蜘蛛の巣

私がこの世で一番嫌悪する生物
それは…「蜘蛛」。

嫌悪どころか、自分の生存を脅かすほどのあからさまな「恐怖」といったほうが近い。
ただし、生まれつき,というわけではないのだ。

なぜならば、こんな記憶があるからだ。

幼稚園ぐらいの頃、近所にあった桜並木の下を歩いているときに、小さな蜘蛛が上からつつーっと降りてきて、それをこともあろうに平然と掌に乗せて歩いた記憶があるのだ。
それも、「落ちちゃってかわいそう」 などと言って。

その子供が、いつからこんなに蜘蛛を恐れるようになったのか。
それも蜘蛛そのもの以上に「蜘蛛の巣」を恐れるようになったのか。

私にとっての最大の悪夢とは、蜘蛛の巣の出てくる夢である。
必ず、うなされて目が覚めるのだ。



10代の頃によく見た夢のパターンはこうだ。
私はたいてい、洞窟の中か穴の中などに居る。
そして入り口には蜘蛛の巣がびっしりと張っていて、私は蜘蛛の巣によって閉じこめられている。
その気になれば手でかきわけ、壊して脱出できる筈なのだが、私は恐怖で近づくことすらできない。
全身に鳥肌が立ち、心臓が今にも止まりそうである。
蜘蛛の巣の向こうに外界は透けて見えているのだが、私は全身震えが止まらず、あまりの恐怖に冷や汗びっしょりとなる。
叫び声を上げようとするのだが声がうまく出ない。
更に叫ぼうとして力を込める。
くぐもったような音がようやく絞り出させる

・・・・・そして、だいたいその辺で目が覚めるのだ。
全身ぐったり疲れ、まだ恐怖の余韻におののいている。

たまたま横に一緒に寝ていた人によると
私はそういうとき酷く苦しげに、うなされているらしい。



これは私の自己分析によるものだが、どうも、あの夢における蜘蛛の巣は、私を巧妙に支配する「母親」の象徴だったように思う。

この意味を理解していただくには少々説明がいる。




私と母親の関わりはかなり根が深い。
ある時期までは、私は母親の期待を一身に背負って育てられたのだ。

最初は落胆からのスタートだ。

一人目が女児だったので二人目も女児だったことへの落胆。
「また女」
だが私は何かと目立つ子供だった。

まず幼稚園のときに知能テストで、156という突出して高い点が出て周囲一同に驚かれる。
お遊戯会では自然といつも主役。
オルガン教室に通わせればあっというまに1番になる。

次第に落胆は過度の期待に変化する。

そこにこんな出来事が起こる。
たまたま、そのオルガン教室の教師が芸大出のチェリストだったのだ。
 
彼女は私の音楽の能力に興味を示す。
教師は私がチェロ向きだと言い、チェロをやらないかと勧めたのだ。
言っておくが、幼稚園児に人生の判断能力はない。

今でもはっきり覚えている。
私は話しかける教師の顔など見ていなかった。
私は母親の顔しか見ていなかった。
そしてそこにありありと浮かぶ期待の表情を見て取って、いつのまにか「やる」と答えていたのだった。

ここで私の人生の歪みは決定したようなものだった。




幸か不幸か、私は筋が悪くなかったらしく「師匠」が段々ランクアップしていった。
芸大(高)など寝ていても受かる、と持ち上げられ、母親は完全にステージママのようになった。
母親、というよりも「マネージャー」といった方が近かった。


毎週、泉岳寺のN響事務所や国立音大などへレッスンに通う。常に母親が楽器を持ってお供する。
そして師匠のレッスン内容を手帳に克明にメモして帰るのだ。
自宅でのレッスン時には、公団の狭い賃貸3DKの襖の向こう側で私の練習に聞き耳を立て、師匠のレッスン内容を大声で私に指示する。「そこはこう言った!」などなど。





私はいつも見張られていた。

この頃には私は、日本でも最も「高級」(らしい)なランクの先生にたどりつき、東京芸大か桐朋音大付属高校に進学することが当然という前提の元に師匠の指導を受けていた。
国立音大ピアノ科の助手にピアノを、作曲科の先生のところでは楽典やソルフェージュの勉強に。
そして、芸大は国立であるから通常の学科試験も優秀でなければいけない、という親の妙な理屈のもと、学校の成績も常にトップクラスであることを要求された。

「なんでもできなければいけない」。

私は幸か不幸かそういう親の要求に応えることができてしまったのだった。
それが良くなかったのだろう。



いつも見張られている、と言ったが、今でも覚えている光景がある。



小学校低学年のころ、学校から帰って外で遊ぶときに、自宅の窓に黄色い旗が出たら家に帰らなければいけないことになっていた。それはレッスンの時間のお知らせ、なのである。

なにしろ忙しい小学生であった。

ピアノの練習とチェロの練習で毎日合わせて3、4時間にもなり、その他に学校の宿題や勉強である。
いつも時間を気にしながら過ごしていた。

ストレスは相当だった筈だ。しかし音楽そのものへのストレスではない。
母親の過干渉からくるストレスだったと思う。 
髪の毛をむしり続けてハゲてしまったり、顔の皮膚の一部をむしって傷が治らなかったり、今思えばその兆候は色々あった。いわゆる「チック症」にもなった。

「プチ家出事件」もあった。

小学4年生の時である。
たまたま練習の手を休んでいる瞬間に母親が買い物から帰ってきた。
彼女は理不尽にも「見ていないとすぐにさぼる」と怒り出して、それに対して反論をしたらいきなり締め出されたので、私は悪くない、と主張するために家出したのだ。
しかし小学校4年生の悲しさ、どこへ行けばいいかわからず、結局小学校の渡り廊下に座り込んでいたのだった。
今思い出すと、お粗末で笑ってしまう。
その日の宿直は、たまたま担任の教師だった。彼は見回り時に私を発見し、家に連絡し、迎えに来た父親に連れられてあえなく私の家出は幕を閉じた。 教師曰く「犬かと思った」と。

あの夜のことは今も鮮明に覚えている。

帰りの道々、父親(2005年死去)は私を一言も叱らず「星が綺麗だなぁ」などと言っていた。私は黙って涙ぐんでいた。しかしその時も自宅のドアを開けた途端に飛び込んできたのは
「誰がそんなとこまで行けと言った!」
という母親の一方的な怒声だったのだ。


中学生のころは下校後に仙川の桐朋学園に通って、空き教室でチェロのレッスンを受ける。ときには校内で藤原真理さんなどとも遭遇し、母親は「おまえもあんなふうになるんだ」と私に囁きかけた。
大先生に紹介されるまま真理さんの父上(楽器商)から高い弓や楽器を言い値で買わされても嬉々としていた。
母親は有名な大先生に逢えることで興奮していたようだったが私はそれどころではない。
私がソリストになること以外は眼中になかったと思う。


この頃の母親はもう、200%私のステージママだったと思う。干渉も半端ではない。 
しかも気性の激しい同志、強烈な衝突を繰り返していた。
まさに血みどろの対決だったと思う。
「だったら楽器なんかやめろ」と何度も煽られ、そのたび唇を噛んでいた子供の自分を思い出す。
「やめない」と言うのが解っていてかかってくる圧力にキリキリしていた。 


しかし、あまりに追い詰められればいつかは人間は壊れて切れる。
進路決定の頃、私は反乱を起こしたのだった。

いつもの母親の売り言葉にとうとう私は「やめる!」と叫んだのだ。
まさに渾身のレジスタンス。
もうそうなれば互いに後へは引けない。
あとはまさに「血みどろの戦い」が繰り広げられた。

「音楽学校へは行かない。普通高校へ行く。大学は東京外大に行く」
こう宣言した私に、母親は
「うちは趣味で音楽やらせるほどブルジョアじゃないんだから、ソリストにならない奴は習わせない」
と対抗宣言し、私はピアノもチェロもとりあげられたのだった。

チェロは見るだけで「心の傷」が疼くのでそれ以来触らなかったが、所詮が副科レベルのピアノはそれからも時折中断しながらも弾き続けてきた。


話はここで終わらない。
その後も母親の 「復讐」 は大学生になる頃まで続いた。

まず、高校受験。

「黙っていても国立付属(芸大付属)に行けたはずなのだから私立などは許さない」
という母親の圧力。(今思えばもの凄い理屈だ。)
そこで寝ていても受かるようにトップランクから1グループ落とす。
だがランクを落としたことで今度はネチネチと母親が私をいたぶる。

高校生の私が何か親と衝突するたびに母親の決めぜりふが飛び出す。
「文句があるなら今すぐ出て行け。
そのかわり親は一切助けないし二度と家にも帰ってくるな。
高校は義務教育ではないんだから。
自分で全部やれないなら親の言うことをすべて聞け」


そして、決定打。

「文句があるなら、おまえにかけた金を耳を揃えて返せ。
金庫の中に明細が入ってるんだから」


ある一時期、私がやみくもに稼いだのは、この頃浴びせ続けられた
「自分で稼げない奴は一切文句をいうな」
という母親の圧力に対する反発が軸になっていたと確信する。
「自分の食い扶持をすべて自分で稼がないうちは自由にはなれない」のだ。

そう。
母親の言うことに反発しながらも、母親自身が17で田舎を単身飛び出してきて、完全自力で都会で生き延びてきた歴史を知っているために言い返せなかった。
本人ができもしなかったことなら説得力はないのだが。




すべての自分の人生の恨み辛みもすべて娘にかぶせてくる母。
報復のつもりか、残っていたピアノも取り上げられたのがこのころだ。

次は、大学受験。

受験日に、暖房横の席にあたって、居眠りしたお馬鹿な私。
おかげで外大は「サクラチル」
受験料を惜しんだ自分は「すべりどめ」は早稲田の商学部。この私が「商学部」。何やるの?…
まさか本命に落ちると思っていなかったので慌てた。
 

「私立なんか許さない。就職しろ」とマジで母親に迫られたが、このときだけはいつも母親に逆らえない父親が、
「早稲田ならお父さん、お金だしてあげてもいいぞ」と ぽそっと一言。
この人は横浜国大建築科を卒業後、文学の夢捨てきれず学士入学で早稲田の仏文に入り直した御仁。小学生の頃に拳をあげながら「ミヤコノセイホク」を歌わされた記憶がある。母校に娘が入ることへの嬉しさを隠しきれなかったのだろう。
こんなわけで、私が一応大学生になれたのは父親のおかげである。





さて。

こんな血みどろの母親との攻防に終止符が打たれ、形勢がやや変わったのは19歳の時だ。


きっかけは、姉の非行だ。
高校の頃から夜遊び、不純異性交遊、果てはシンナーまで、と素行のおかしくなった姉が、就職先で不祥事をおこし、一家がどん底に陥ったという事件があったのだ。 姉の名誉にかかわるので詳細は書かないが、三文週刊誌ネタになりかねないほどの事件だった。 
結果として我が家は経済的にかなり苦しい状態になったのだ。
 
 

ある晩 母親が夜中に台所で泣きながら死にたい、と云う姿を見た。
そのときから私と母の関係が変わったように思う。
母親がそういう弱みを見せたのは初めてだったからだ。

私はバイトで貯めたお金を17万ほど定期預金にしていたのだが、
そのお金は後期の学費に消えた。
その後も塾講師のバイトを目一杯増やして稼ぎまくっては学費をつくった。

失踪した姉の居場所をつきとめて夜中にタクシーとばして繁華街で夜明けを待った時も、憔悴している母親に付き添い励ましたのは自分だった。

ダメだ、ダメだと云われ続けた自分がようやく今、存在を認められている気がした。
その事件から母親が多少気弱になったために、ようやく対等に向き合えるようになったように思う。




その頃を境に徐々に 例の「蜘蛛の巣」の夢は見なくなっていった。

出口をふさぐ蜘蛛の巣は、母親が張り巡らせた娘を支配するための巧妙な罠だったように今では思う。




・・・・・・・しかし この5~6年だか再び 蜘蛛の巣の悪夢が復活している。
・・・・・・・・・・・・・洞窟、ではないのだが・・・・・

わかっている。 「蜘蛛」は夫。 
いえ、夫と自分の関係性の象徴だ。




★余談★

あとで心理学の本で知ったのだが、
しばしば、蜘蛛は「悪い母親」の象徴として現れるものなのだそうだ。


 
 
 
 
 

 
初稿  2005/8/6

 
 
 
      自作詩と随想  目次

テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

私は石になりたい

知人のところで飼っていた犬の悲しい運命のことを知った。
シベリアンハスキーの雌である。
癌におかされ、家族が手一杯で世話できないという事情で処分場に送られたそうだ。

 
一晩散々泣いて泣いて、
今朝は顔が腫れて人前に出られなくなってしまった。
今も日に何度も思い出して辛い。

 
何年か前に頼んでお散歩させてもらったこと、
その時、彼女がはしゃいでもの凄い力で私を引っ張って走ったこと、
草むらでヘビを見つけて「蛇狩り」を始めたこと・・・・・ 
思い出すと涙が止まらない。 

ああ自分はなんでこんなに非力なんだろう、というのが辛い。

こういう時はいつも、人間なんか嫌いだ!と思う。

そして、自分が人間であることが、
それだけで原罪であるとに思えてまた切なくなる。

 
大金持ちで大きなお屋敷に住んでいたら、
彼女を引き取って
どうにでも面倒みてあげられたのになぁ、とか
無意味なことを考える。 

私は非力なただのちっぽけな存在で、
犬一匹、猫一匹救うこともできない。 

それがとてもやるせなく、悔しく、苦しいのです。

だからといって
保健所で運命を待っている犬や猫全部を救うことなんて
到底不可能なんだし、
言ってもせんないことと頭ではわかっていても、

それでも悔しくて、辛くて、切ないのです。

生まれ変わるとしたら犬だけはイヤだ。
(猫の方がまだマシだけれど)

できることならば私は路傍の石ころになりたい。

そう、心のないものになりたい。

「私は貝になりたい」とつぶやいたあの昔の人のように。


 


初稿  2005/8/15
 
 
 
 
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テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

「鎮魂歌」~木原孝一さんのこと

木原孝一という詩人がいる。
故人であるから「いた」と過去形で書くべきなのであろうが、作品は生き続けているので、あえて現在形で書いてみる。
木原孝一は戦後の詩史の中心であった「荒地」同人であり、わが父親の親友でもあった。

木原氏についてはいろいろな思い出がある。

私が幼児の頃、川崎の社宅住まいだったのであるが、その当時、この「木原のおじちゃん」はよく家に遊びに来たのを覚えている。子供心に「いつもお酒飲んでる」「声がおおきい」と思っていた。

ある時など、私が母親に叱られて玄関先に閉め出されていたところへ「おじちゃん」はやってきた。

「木原のおじちゃん」は来るなり玄関の前で仏頂面(多分)で座り込んでいる小さな女の子を抱えあげ、無理やり肩車をして、勝手に玄関をあけて我が家に凱旋したのであった。
「この子、玄関に捨ててあったぞ~」と叫びながら。 
私は泣きながら「捨ててあったんじゃない!」と「おじちゃん」をボカスカと殴っていたようなおぼろげな記憶があるのである。


さて この「おじちゃん」はいつも酔っ払っていたような気がする。

子供心に 「なんとなく苦手」と思っていた。 
父親も大酒を飲んではクダを巻いていたので、大酔っ払いが二人揃えば、傍に居た子供がどんな目に合うかは、あなたにも想像がつくことだろう。

この「酔っ払いのおじちゃん」が実は結構有名な詩人であるなんてことは、子供には何の価値もないのであった。


高校生になった頃、私は詩に親しむようになっていた。蛙の子は蛙、だからなのか、単なる親の洗脳教育の成果なのかはわからない。

何しろ、本だけは腐るほどある家である。 現代詩関係の文献なら、その気になればそれこそ何でも読めるわけである。こういった「恵まれた環境」の中で次々と新しい詩作品に出会い、黒田三郎、高野喜久雄といった詩人に傾倒していったのであった。そんな文脈の中で、高校1年生の夏休みの現国の自由課題として「作家論」または「作品論」を書け、という課題が出た時、私は「黒田三郎論」を書こうと決意したのである。


父親に色んな質問をしながら「詩学」(故 嵯峨信之氏の主宰されていた同人誌)や「鮎川信夫詩論集」や「言語にとって美とは何か(吉本隆明氏の名著)」などを片端から引っ張り出してもらい、父親と詩の話をする。 そんな中で、ある晩、いつものように少し酔った父が、妙にしんみりしながら、書棚から一冊の詩集を取り出した。


「木原孝一詩集」


その中からあるページを開いた彼は、「この詩はお父さんが一番好きな詩なんだ」と言って、一編の詩を読み上げ始めた。 「鎮魂歌」



読み終わったとき 彼は泣いていた。

泣きながら私に謝った。娘に思いかけずそんな姿を見せてしまったことへで彼も動転したのかもしれない。

娘はどうしてよいかわからず、戸惑い、黙っていた。 気恥ずかしかった。


ずっと時間がたってから振り返ってみると、あの時、父と心の回路が開けたような気がした。

一人の人間として、苦悩を抱えた人間としての存在として、私の前に立つようになった。

彼と文学の関わりも垣間見た気もした。


戦争にまつわる悲惨な詩の多い木原氏の作品は、バリバリの戦後世代の私には、父が感じたようには生々しく受け止めることができないものが多いのだが、「鎮魂歌」だけはその夜以来私にとって「特別な詩」になったのである。






鎮魂歌

木原 孝一    




  弟よ おまえのほうからはよく見えるだろう
  こちらからは 何も見えない


昭和三年 春
弟よ おまえの
二回目の誕生日に
キャッチボオルの硬球がそれて
おまえのやわらかい大脳にあたった
それはどこか未来のある一瞬からはね返ったのだ
泣き叫ぶおまえには
そのとき 何が起こったのかわからなかった


  一九二八年
  世界の中心からそれたボオルが
  ひとりの支那の将軍を暗殺した そのとき
  われわれには
  何が起こったのかわからなかった


昭和八年 春
弟よ おまえは
小学校の鉄の門を 一年遅れてくぐった
林檎がひとつと 梨がふたつで いくつ?
みいっつ
子山羊が七匹います 狼が三匹喰べました 何匹残る?
わからない わからない
おまえの傷ついた大脳には
ちいさな百舌が棲んでいたのだ


  一九三三年
  孤立せる東洋の最強国 国際連盟を脱退
  四十二対一 その算術が出来なかった
  狂いはじめたのはわれわれではなかったか?


昭和十四年 春
弟よ おまえは
ちいさな模型飛行機をつくりあげた
晴れた空を 捲きゴムのコンドルはよく飛んだ
おまえは その行方を追って
見知らぬ町から町へ 大脳のなかの百舌とともにさまよった
おまえは夜になって帰ってきたが
そのとき
おまえはおまへの帰るべき場所が
世界の何処にもないことを知ったのだ


  一九三九年
  無差別爆撃がはじまった
  宣言や条約とともに 家も人間も焼きつくされる
  われわれの帰るべき場所がどこにあったか?


昭和二十年
五月二十四日の夜が明けると
弟よ おまえは黒焦げの燃えがらだった
薪を積んで 残った骨をのせて 石油をかけて
弟よ わたしはおまえを焼いた
おまえの盲いた大脳には
味方も 敵も アメリカも アジアもなかったろう
立ちのぼるひとすじの煙りのなかの
おまえの もの問いたげなふたつの眼に
わたしは何を答えればいいのか?
おお
おまえは おまえの好きな場所へ帰るのだ
算術のいらない国へ帰るのだ


  一九五五年
  戦争が終わって 十年経った
  弟よ
  おまえのほうからはよく見えるだろう
  わたしには いま
  何処で 何が起こっているのか よくわからない









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テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

太陽の「白」

私は高校の時、駿台予備校の高校生クラスに通っていた。
その当時、現代国語の名物講師に、藤田先生という方がいらっしゃった。
その先生の授業で、今なお心に鮮明に残っている言葉がある。


「大人における純粋さは 太陽の光の白」

・・・・・白には2とおりある。

ひとつは、まだ 何も書いていない紙の純白。

もうひとつは、全ての色を吸収した結果の 白。

何も知らない赤ん坊の純粋さは いわば ひとつめの白と同じだ。

それはなるほど 確かに汚れもなく貴重なものである。

では、大人になるということは、

ただただその純粋さを失ってゆくことなのだろうか?

否。

大人における純粋さというものがありえるとすれば、

それはいわば 

全ての色を吸収した結果の白、

太陽の光の白なのだ。

あらゆる色を包含した結果もまた 白となる。

しかもこれは揺るぎない白だ。

ただし この揺るぎない白に到達するためには、

綺麗な色だけを選んでいては不可能だ。

醜い色も美しい色もすべて必要なのである。

そして、わたしたちは、光の白さを目指すべきでなのではなかろうか。





・・・・・・・・・・・・・・17歳の私に この思想は感動を与え、心にしみこんだ。
それは いつも私の心の根底に生き続けている理想であり、生きるというこのに対する考え方の基本のひとつでもある。

そしてまた、何十年も人の心に残るような 言葉
そんな言葉を吐ける存在でありたい、と思ったのもまた確かなのであった。






 
 
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黒猫

Author:黒猫
このブログはHPから詩の部分だけをまとめました。

10代の頃からこれらの詩はいつも自分の中にありました。
私の中にとけ込んだ詩人たちんの言葉と私自身のつたないことばだち。

八木重吉の「秋の瞳」序文ではありませんが、このつたない詩を読んでくれたあなた  私を心の友としてください。

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