かけがえのない、今

春の美しい時期は、なんと短いのだろう。 


近所に雑木林の美しい散歩道がある。 
天気の良い春の一日に、ふらりとそぞろ歩きで小一時間。 
私の「太陽電池」は それだけでも充電される。
たった5日後にはこの芽吹きの美しさは失われ、濃い緑が浸食してくるだろう。
そう。まぎれもなく「失われる」のである。
私には、それがまるで永遠に失われてしまうかのように胸が痛むのだ。


人は云う。「春は毎年巡ってくるじゃないか」と。
『今年がだめなら来年でいいじゃない。』
気軽に言う。

だけど春は何度でも来る、だなんて ただのレトリック。
「去年の春」と「今年の春」と「来年の春」。
ひとつひとつが、かけがえのない、取り返しのつかないものだ。



こんな感覚におそわれるようになったのは
多分 30代半ばぐらいから。
世間的にはまだ大した年齢ではなかったのに、自然や季節に対してやたらと過敏になった。
春に萌えたつ雑木の散歩道にさしこむ、輝くばかりの木漏れ日の美しさにさえ、たまらず涙ぐんでしまうほど過剰にセンシティブになった。
確かにどうかしている。 

だが、何かが私をせき立てる。 


  このひとときは、取り返しのつかないひととき。
  このひとときは、「いのち」のひとしずく。 
  このひとときに対して真摯であれ。 


この一日が another day と同じだなどと誰が言った。 
one of them だなどと。


そう。
春は年に1度 ”しか”めぐってこない。 
それはどういう意味かというと、
ひとはだれも自分の寿命分しか春を楽しめはしない、ということだ。

それは配給の限られた限られた貴重な『資源』。
あなたは今何歳?
例えば40歳だとしようか。
もし80歳で死ぬならあと40回しか春は来ない。
4000回ではなくて40回。
たったの40回。
1から40までなんてあっというまに数え終わる。
目の前の春はそのうちの貴重な1回。


私がこんなに思い詰めたのだから、75過ぎた父親や母親【注】にとっては、この美しい春はどのように映ることであろうか。


この春、父親は都内各所の桜の名所の公園などに精力的に出かけたようである。
「急がなければ」という気持ちになっているのかもしれない。
最近 しみじみ考えるのは そういうことばかりなのである。


人生に
「かけがえのないもの」
「とりかえしのつかないもの」
そういうものばかりが折り重なってゆく。
ひとひら、また ひとひらと舞い散る桜の花びらのように。



【注】 2005年秋現在 父は病床で寝たきりとなり
    逝く日を数えるばかりとなった。
    父はおそらくもう一度春を迎えることはないのだろう。




2011年追記:

父は2005年9月23日永眠した。二度と春と味わうことはなかった。
本当にあれが「最後」の春になった。




      自作詩と随想  目次


テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

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Re: こんにちは

万華鏡のなかには なにが見えたのでしょうか。

こんにちは

かけがえのない今
を私は昨日
万華鏡の中で見ました

穴から覗く世界はその時その見た者にしかない時でした
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黒猫

Author:黒猫
このブログはHPから詩の部分だけをまとめました。

10代の頃からこれらの詩はいつも自分の中にありました。
私の中にとけ込んだ詩人たちんの言葉と私自身のつたないことばだち。

八木重吉の「秋の瞳」序文ではありませんが、このつたない詩を読んでくれたあなた  私を心の友としてください。

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